日本キリスト教団六ツ川教会 ローズンゲン釈義黙想(2025/1/17)
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- Опубликовано: 31 янв 2025
- 2025年1月17日(金)
【旧約聖書】
誰の道も主の御前に開かれている。箴5:21(ド)
【新約聖書】
主が来られるまでは、何事についても先走って裁いてはいけません。主は、闇に隠れた事を明るみに出し、人の心の謀をも明らかにされます。Iコリ4:5(協)
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「ローズンゲン釈義黙想」は、日本キリスト教団六ツ川教会の会員向けのメッセージです。
日々、御言葉を聞くことができるように毎朝5時に更新します。
「公開」設定にしていますので、六ツ川教会の教会員でない方も、ご関心のある方はどうぞ自由にご活用ください。
釈義黙想の後に、呼吸と沈黙の時間があります。
ヨガのトレーニングから学んだ呼吸法のごく基本的な方法を取り入れています。
御言葉を聞き、呼吸と姿勢を整えて、良い一日の始まりとなりますように。
どうぞ今日も笑顔でお過ごしください。
使用しているテキストは『日々の聖句 Losungen2025』(ベテスダ奉仕女母の家出版部、2024年)です。全国のキリスト教書店でお求めいただくことができます。税込み1,400円です。
*ローズンゲンで指定された場所以外は、聖書協会共同訳聖書のテキストを用いています。
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私が学生のとき、ある法学部の教授が死刑制度について反対することについて述べるとき、このようにおっしゃったことが印象に残っています。「人間は間違いを犯す。その人間が人の命を奪う死刑を判断することはしてはならない」、このような趣旨だったと思います。その教授は理屈が服を着て歩いているような方で、冗談の通じなさそうな、お堅い感じでしたが、そのような先生が、「人間は間違いを犯す」とはっきりとおっしゃったことに、少なからず驚きました。近年の死刑判決に対する再審、そして無罪というケースを見ると、この先生のおっしゃっていたことの大切さが、今更ながら感じられます。人間は間違いを犯します。その人間が、他者を裁くということは果たして可能なのかどうか、そもそも何を根拠に裁いているのか、考える必要があるように思います。
本日も昨日に引き続き、コリントの信徒への手紙が与えられました。昨日申し上げたことですが、コリント教会では知恵のある者が誇り、そうでない者が居心地の悪い思いをすることが多々ありました。教会内でいい気になっている者たちのグループがいたのです。それは生活態度でも現れますし、精神状態にも現れています。偉そうにしていたのでしょう。コリント教会のゴタゴタの原因は、こういったいい気になっている人々にありました。その人々は、間違いなく、立場の弱い人々を裁いていたはずです。そのような人々に対して使徒パウロはこのように言います。「主が来られるまでは、何事についても先走って裁いてはいけません。主は、闇に隠れた事を明るみに出し、人の心の謀をも明らかにされます。」裁いてはならない。マタイによる福音書7章1節には、イエスが「人を裁くな。裁かれないためである」とおっしゃったことが記録されています。コリント教会においては、裁く人は、なぜ人を裁くのでしょうか。自分の力を誇示するためかもしれません。気に入らない人々を退けるためかもしれません。自分の出世のためには証拠を捏造することも厭わない人々がいることを考えると、裁く人の心というのは、高慢で、上から目線で、非常に醜いものであるといえます。神さまは、そのような人の心を明るみに出すと言っています。その醜い心が明るみに出されることによって、裁いている人が、本来は裁かれるべき人であることも、十分にありうるのです。もし、自分が人を裁いているような行動をとっていたとすれば、そのようなことをする資格が本当に自分にあるのかを考える必要があります。また、人からよく見られたいと思う心や、気に入らない人を退ける心がないかどうか、よく考える必要があります。人間は間違いを犯します。そのことを認識していれば、人を裁くことなどできないはずです。なにより、裁きは神さまにお任せすればよいのです。
箴言にはこのように書かれています。「誰の道も主の御前に開かれている。」私たちは、自分たちの醜い心によって、他者の前にも開かれている神さまへの道を閉ざすことはできません。同時に、私たちの神さまへの道も、誰からも閉ざされることはありません。自らを誇ることなく、人を裁くことなく、すべて神さまにお任せをして、私たちは一日一日を歩んで参りたいと思います。
日本キリスト教団六ツ川教会牧師 桐藤 薫